トルコ皆既日食ツアー備忘録

1999.8.8-17 (www version)


まえがき
1999年8月に、大西洋〜ヨーロッパ〜中東を通る日食がありました。 今回は、大学の先輩方と一緒に、コプティック星座館が企画し、 近畿日本ツーリスト(以後KNT)が主催する日食ツアーに参加して、日食を見て、 トルコ旅行を楽しんできました。 本編は、この旅行の備忘録として書いたものです。 あくまで、備忘録としての性格上、内容はほとんど私の主観的なもので、 また文体も、「です・ます」調ではなく、「だ・である」 調で書いています。読みづらいとは思いますが、ご容赦ください。 情報は、なるべく正確を期したつもりですが、間違いなど含まれている可能性が あります(公開後、随分修正しました)。その辺のことを含めてお読みください。 なお、公開に際しては、本人の了解を取っていないため、個人名はすべて、 アルファベット2文字で略しております。(歴史上の人物などは除く)

第1日目(8月8日) 成田…パリ…イスタンブール
8:03新宿発の成田エクスプレスは1分の遅れで、成田空港駅に到着。 いよいよ、旅の始まり。9:40、集合時間20分前に集合場所のエールフランスの カウンターの前についた。これから旅を一緒するであろう数人の方がいる。 添乗員はKnさん。Shivaは、日食撮影計画のページ に書いた機材と着替えをすべて、ピギーバック1つと小型のデイバックに収めて すべて機内持ちこみにするという荒業にでたため、チェックインカウンターで 預ける荷物は無い。Knさんとの挨拶を済ませ、洗面をして再びカウンターの 所にくると、大学の先輩でこのツアーを推薦してくれたNzさんの姿があった。 Nzさんのさらに上の先輩で私は今回が初対面の、Uyさんや,大学の近くの 飯能天文同好会 (このツアーを企画したコプティック星座館のMz店長も所属しているらしい) のTgさんなど、Nzさんが紹介してくれた。Mz店長と、KNTの Ynさんは先にトルコ入りして、最後の準備に追われているそうだ。
10:20、全員集まったところで、再集合。あらためてKnさんの挨拶がある。 同じコースの参加者は約40人。このコプティックのツアーはいくつかの コースがある。我々の参加するのは、B2コースでトルコ観光10日間のコース であるが、他に、モスクワ観光コース(Aコース),トルコ8日間のコース(B1), ドイツ観光コース(Cコース),関空発のコース(D,E),イランコース(F)がある。 このうち、イランコースを除くコースはそれぞれ別々に出発し、それぞれの 観光地を経由し、日食の当日は、すべてトルコのシワス(Sivas)という町に 集まって観測することになっている。 イランコースだけは、イランのイスファンという町で観光する。
我々のコースの出発に先立ち、B1コースがルフトハンザ航空で フランクフルト経由で、トルコのイスタンブールに向け、飛び立ったらしい。 われわれは、12:00発のエールフランスAF-275便でパリ経由で イスタンブール入りすることになっている。直行便は便数が少なく オーバーブッキングなどのリスクをさけて、AF機でパリ経由となったらしい。 NzさんがLibrettoで最後のメール確認をするのを待って、11:30出国手続き。 大きなピギーバックをかかえているせいか、セキュリティチェックの後、 警備員にパスポートを見せるように言われる。先日、航空機マニアがハイジャックを おこしたばかりのなので、警戒がいつもより厳重だった。 サテライトに行くと、これから我々の乗るAF-275便の搭乗が始まっていた。 機体はB747-400、いわゆるハイテクジャンボ。 機内はトリコロール(フランスの国旗)を意識してか、青いシートに赤いカバーが 掛かっていた。私の席は21Bの席で、翼の上のあたりのEXITの手前の席で、 隣の窓側がNzさんであった。反対側の隣は日通旅行の添乗員と思われる方がきた。 どうも、オーストリアだかあちらの方に、音楽を聴きに行くツアーの様だ。 EXITの手前の席ということで、ちょうど背中合わせにキャビンクルーの ジャンプシートがあり、背もたれがあまり倒れなかった。
退屈な12時間半が過ぎ去り、フランス時間17:30に、パリ・ドゴール空港に無事 着陸。日本との時差は夏時間のため−7時間である。B747-400は、滑走路から サテライトまで、空港横のホテルや道路のすぐ脇を延々と通っていった。 トランジットは、空港バス。エールフランスご自慢のコンコルドが見られないかと 見まわしたが、見つからなかった(いちおうShivaは、JFKで離陸の瞬間も含め 見たことはある)。Shivaはこれが初めてのヨーロッパであるがトランジットでの 入国は無かった。残念。(以前、シカゴ経由でモントリオールに行ったときには、 シカゴでアメリカ入国したのでちょっと期待していた)
フランス時間19:20、AF2390便イスタンブール行きの搭乗開始。機体はA320であった。 パリ→イスタンブール便にもかかわらず、機内ではフランス語,英語についで、 日本語の案内があった。19:50離陸,通路越しにパリの灯が見えた。 トルコ時間23:40機内を消灯してイスタンブール着陸。いよいよトルコ入国である。 ちなみにトルコは夏時間で、日本との時差は‐6時間、パリとの時差は+1時間である。 パスポートにビザを捺されて、バッゲージクライムへ。Shivaはすべて機内持ちこみ したが、他の皆さんはここで荷物を受け取る。ここで、問題発生。 Tgさんの荷物が出てこない。いわゆるロストバッゲージ。 00:20、TgさんはKnさんと共に窓口に行き、ロストバッゲージの手続き。 他の方々はとりあえず迎えのバスで待つ。00:30、TgさんとKnさんが遅れてバスに入る。 荷物の行方は依然不明。とりあえず我々の日程を告げて、見つけ次第届けてもらう様に した様だ。ここでこれから9日間、我々のガイドをしてくれるHuさんと顔合わせ。 現地ガイドその他はMagister Toursという旅行社が担当である。 それと、当面必要となる現地通貨の換金。トルコの通貨はトルコリラ(TL)。レートは 1円=3,700TL/10,000TL=2.7円であった。換金は10,000円単位で、とりあえず 私を含めほとんどの方は10,000円換金して、5,000,000TL札6枚,1,000,000TL札5枚, 500,000TL札2枚,250,000TL札4枚の、計37,000,000TLを入手したようだ。 枕チップは必須ではないが、目安として、1部屋あたり1米$か500,000TL程度とのこと。 なんかTLに慣れるのにしばらく掛かりそうだ。これらはインフレの産物で、 今年買ったガイドブックでも、すでに値段が変わっていたりするので、注意が必要だ。 ちなみに、実際に町角などの値段表示は、1,000TLを1として表示されていたりする。 つまり150と書かれている場合は、150TLではなくて、150,000TLということである。 お札やコインをはじめいくつかの場面では、1,000を1Binとして 表示していることもある。
12:50、空港近くのホリディ・インに到着。明日はイスタンブール発6:00の飛行機に 乗る関係で、3:30モーニングコール,4:30出発の強行軍。それでも添乗員Knさんは 成田を先に出発したはずのB1コースが2時ごろにあとから到着するので、それまで ロビーで待つとのこと。大変である。部屋はNzさんと一緒であった。 部屋に入るとNzさんは、さっそくLibrettoの接続試験。その隙にShivaは先に風呂を 頂いた。記念に37,000,000TLのお金をテーブルに並べて写真に撮ったりしてて、 結局寝たのは2:00すぎ。もはや睡眠できる時間は1時間半しか残っていない。 これではホテルに泊まるというより、ドメスティックへのトランジットの合間に 仮眠を取ったというレベルである。 疲れているせいか、ベッドに入ったらあっという間に記憶が無くなった。

第2日目(8月9日) イスタンブール…アンカラ〜カッパドキア〜ユルギュップ
3:30、モーニングコールで起こされる。4:10、朝食はいらないだろうと思っていたが、 ロビーに行く途中にレストランがあり、他の皆さんが食事しているのをみると、 急に食べたくなったので、少し頂く。4:30、ホテル出発。結局 ホリディ・インには 3時間半程度しか居なかったことになる。後になって思うと、このホテルが 一番ベッドが大きかった。空港に向かうバスから、下弦の月が見える。 この月があと2日後には太陽を隠すはずである。
5:30、イスタンブール発アンカラ行のトルコ航空TK-102便に乗る。機体はB737-400、 9Eの席でどういう訳か、他の席に比べ少しだけ前が広かった。運がいい。 6:20、滑走路の端に一旦停止してから加速の後、離陸。すぐにアンカラ到着であるが、 簡単な朝食が出る。7:00、アンカラ到着。7:30、バスに乗り換え出発。 バスはメルセデスベンツである。NzさんとUyさんが2人並んで座ったので Shivaはその前の席に座った。我々が出発するときに、後続の飛行機で アンカラに到着したB1コースの人たちがちょうどバス乗り場の方にやってきた。 バスは、まずアンカラの町のほうに向かう。ドライバーはMmさん。助手はElさん。 アンカラの市街に向かう途中の丘の上には、銃を持った人が立っていた。 日本人(我々のこと)がいっぱい来るから、警備しているらしい。 アンカラの町には軍の施設もあった。トルコは徴兵があるらしい。 モスク(イスラム教の寺院)があちこちにある。トルコは全人口の99%がイスラム教 だそうだ。イスラム教でも、トルコは比較的戒律が厳しくなく、アルコールはOKだし、 髪を隠していない女の人も結構いる。衣装もカラフルだ。 ガイドのHuさんも生まれながらイスラム教で、国籍にイスラム教と入っているという。 町の中心部を抜け、郊外に出ると家がまばらになる。丘の上にポコポコと団地の ような建物があったり、半分丘に入っているような家もある。 窓の風景も退屈になり、だんだん居眠りする方が増えてくる。 さらに走るとさらに家が減り、半乾燥の、いわゆるステップ気候特有の風景となる。 高い木はほとんど無く、刈り取った後の麦畑が増えてくる。ひまわり畑もあった。 9:30〜9:45、小休憩。10:00ごろ、右窓に湖が見えてきた。しかしなんとなく 様子が違う。と、思っているとHuさんが説明をはじめた。この湖は、タズ湖(Tuz)で、 塩湖だとの事。湖の周囲が白く、塩が積もっている。 大昔、内海だったものが取り残されたものらしい。 10:15、タズ湖が良く見えるところで、写真休憩。 路肩でメロンを売っている少年が居る。年齢を聞くと、10歳だという。
11:20、アクサライ(Aksaray)という町で20分休憩。 ここで左折してカッパドキアに向かう。麦畑では焼畑が行なわれている。 しばらく行くと、妙な山が見えてきた。山に見えたのはウチヒサール城(Uchisar)。 いよいよカッパドキア地方に入った。カッパドキアの観光の前に、食事。 KAPPAという名前の、日本人が経営しているレストラン。 凝灰岩を掘って作ったレストランで、メニューは鮎の塩焼き。
食事が終わったらいよいよカッパドキアの観光。まずはじめはカイマクル(Kaimakli) の地下都市。かつてキリスト教徒が、アラブ人から身を守るために作った都市である。 火山灰が固まった凝灰岩を掘ったもので、掘ると酸化して表面が固まるため、簡単には 崩れないらしい。中に入ると、外の暑さが嘘のように涼しかった。 摂氏約15度とのこと。外気温は、30度を超えている。 この地方で、岩を掘って家を作るのは、その方が涼しいからだそうだ。 昼食を食べたKAPPAというレストランも、このようなつくりであった。 カッパドキアが世界遺産に登録されてからは、岩を掘って住むことは出来なくなった。 カッパドキア特有の、キノコのような岩も、この凝灰岩の上に固い岩盤があり そこに雨水が進入して出来たものだ。地下都市の中はまるで迷路のようになっている。 10世紀ごろのもので、3000人くらいが住んでいたそうである。 敵が攻めてきたときにすぐに閉められるように、円形の扉があったり、 台所や、ワイン庫などもある。カイマクルは地下8階まであるそうであるが、 酸欠にならないのかなと思っていたら、ちゃんと空気を取り入れるための縦穴もあった。 バスに戻る途中、店先で「ヨンジュッコ、センエン」といいながら、小さな ナザール・ボンジュ(目玉模様のトルコの魔よけのお守り)をふりかざす。 続いて、ギョレメ野外博物館(Goreme)の観光。一番奥のサンダル教会(Kankli Kilise) に行く。教会内に聖なる足型があることから、この名前がついたそうだ。 壁,天井には、見事なフレスコ画が描かれている。一部、顔の部分が剥ぎ取られている。 11世紀ごろの教会だとのこと。内部はフラッシュ撮影禁止ということであるが、 さすが皆さん天文ファン。暗いところでの撮影はお手のもの。 床にカメラを置いてセルフタイマーで数秒間露出をかける。 フィルムがあっという間に無くなる。Shivaは日食用とは別に6本ほど持っていったが すでに2本目の半ば。ここで、3本購入した。 (後にあと1本購入して、天体&日食用の2本と合わせて計12本撮影した。 そのうち1本は皆既中に使ったリバーサルです。 天体用に高感度をあと2本持っていきましたが、それは結局使いませんでした。) この後は、写真撮影。まず最初に見えたウチヒサ−ル城に行く。ついでそこから 少し下った辺りの谷を上から見下ろす辺り。最後に少し離れた、カッパドキアの 写真に良く出てくるキノコ状の岩が林立している辺りに行く。妖精の煙突というらしい。 途中でラクダの様な形の岩のあるところを通る。地震が来たらあっという間に 崩壊してしまいそうな、キノコ岩を観光。Huさんによれば、カッパドキアなどのある 中央アナトリア(アナトリア=アジアという意味だそうだ)は地震は無いとのことである。
カッパドキアを満喫して本日宿泊するユルギュップに向かう。 ユルギュップはカッパドキア観光の基地になっている。 18:40、宿泊するぺリシアホテル到着。日本を出国してから約37時間。 自宅を出てから約42時間。この間、ほとんど何らかの乗り物に乗って いたことになる。40時間耐久レース(Knさん談)もようやく終わりとなった。 部屋は4102。4階かと思ったら、4号棟の102号室だった。 Tgさんの荷物は依然行方不明。 夕食は19:45から。トルコ料理は結構おいしく我々日本人の口にもあう。
食後、西の方が開けているところがあったので、三脚を立てて固定撮影を はじめたが、曇ってきたので一枚だけ撮ってやめた。 風呂に入って、今日の出来事を書いたメモを読み返して補足する。 あとで、日本に帰ってから旅行記を書くための資料である。 やはり40時間耐久レースで、疲れていたせいか、午後の出来事がほとんど メモされていない。 (この文章で、この日の午後の出来事に細かい時刻が入ってなかったり、 観光場所の細かい名前が一部入っていないのは、このためです。) リブレットで通信を試みるNzさんを横に、Shivaは先に寝た。 翌朝、冷蔵庫のコーラとミネラルウォーターが空になっていた。 1:00ごろまで起きていたらしい。

第3日目(8月10日) ユルギュップ〜シワス
朝目がさめると、冷蔵庫のコーラとミネラルウォーターの空き瓶が机に置いてあった。 モーニングコールまで少し時間があるので、6:40ごろ、隣で寝ているNzさんを残して 部屋を出、ホテルの庭を散歩する。西の方の小高い丘の上に気球が飛んでいる。 朝と夕方、気球で上空からカッパドキアを眺めるための、観光用気球らしい。 同じホテルに、阪急ツアーの人も泊まっているらしい。阪急ツアーもトルコでは、 KNTと同じくMagister Toursと組んでいるようで、明日は我々と同じ大学で 日食を見る予定だそうだ。
朝食の後、バスに乗る。午前中はひたすらシワスを目指す。 B1コースの後発隊と一緒だったのでB1コースの方のバスに乗った。 B1コースはバス2台で多少席に余裕があり、1台のバスは朝のカッパドキアを見るために、 B1コースのほとんどの人を乗せて、先発隊として早朝にホテルを出たらしい。 B1で参加の同じ大学の先輩の方も、先発隊で出てしまったようだ。 B1コースのバスの添乗員はMtさん。ガイドはFzさん。Knさんが、B1のバスを見まわして、 「ここにいる人たちは若い添乗員がいいのね」といって、B2のバスに戻っていった。 8:20、出発。ひたすらシワスに向かう。途中カイセリ(Kayseri)の町を通る。 カイセリの町には軍事工場があり、戦車が並んでいた。カイセリからシワスまでは、 ところどころ鉄道の線路に沿っているところがあり、時折機関車に引かれた列車が 見えたりした。我々と前後してシワス行きの長距離バスも走っている。 途中休憩をとる。ミネラルウォーターを買う。トルコ語ではス(Su)という。 空を見まわすと、幾分か雲が見える。みんな天気が気になる。 シワスに近づくと山岳区間に入った。
山岳区間を抜けて、シワスの大学の前に来たところでバスが停車。 なんでもテレビ取材が来てるそうで、時間調整するらしい。 我々が日本でもらった資料では、シヴァス大学(註:シワス=シヴァス=Sivas) と書かれていたが、正式にはジェムフリエット大学(Cumhuriyet Universitesi)という。 10〜20分ほど待って、他のコースのバスと合流し、大挙して大学に入る。広い。 門から、我々の生活の拠点となる食堂や学生寮のある辺りまで、大学の農場がある。 食堂の辺りに近づくと、人が集まっている。音楽が聞こえてきた。 バスが停まると、すぐ横で我々を歓迎する踊りをやっていた。 バスを降りて写真を撮る。ものすごい歓迎ぶりだ。一緒に踊った方もいる。 もちろんテレビカメラも来ていた。
大学の食堂で昼食。金属製のトレーを持って並ぶと、食堂の方がトレーの各部分に 食事を盛る。なんか小学校の給食を連想する。飲み物は別売で、売り子がいる。 14:00、食事の後我々の観測場所となる、大学のサッカー場に行く。事前案内で、 KNTの安野さんが、「2年前に初めて行ったときにはただの広場でした。 1年前に行ったらスタンドが出来ていました。この前行ったときにはフェンスで 囲まれてました。行くたびに何か出来ています」などといってたので、 冗談で屋根が出来てるんじゃないかとか噂していたが、屋根は無かった。 太陽の高度を確認する。旅行前に成田でKNTから頂いた太陽グラスで早速太陽 を見ている人もいる。 明日の日食は13時過ぎに部分食が始まり、14:30過ぎに約2分間皆既を迎える。 B1の添乗員のMtさんがフィルム越しに太陽を見ていたら、 地元のマスコミがその様子をカメラに収めていた。サッカー場に日本人が集まっている ということで、地元の少年たちがボールを持ってきて、一緒にサッカーをやりたいと 誘われる。トルコは親日的な国で、それは歴史的には日露戦争まで遡る。 そのころ、トルコはロシアにどうしても勝てなかったのに、アジアの東の端の 日本がロシアに勝ったということで、自分たちのことのように喜んだという。 さらに、1923年に共和国制を敷いてからは、工業化をすすめるにあたり、 改革の父アタチュルクが、日本の明治維新を見習う政策を進めたことが理由だそうだ。 トルコでは中学校で英語を教えているということで、子供たちが英語で 積極的に話し掛けてくることが多かった。英語が使いたくてしょうがないらしい。 トルコ語そのものは、語順が日本語と似ていて、動詞が後に来るということだ。
14:30すぎ、我々の寝泊りする、大学のドミトリー(女子寮)に行く。 男子寮より女子寮の方がきれいだと言うことで、Ynさんが以前から 大学当局と掛け合い、この時期に使わせていただけるようお願いしておいたそうだ。 寮の前で1人あたり1.5リットルの水と、南京錠が配られる。 部屋は8人部屋であるが、これを4人で使う。われわれの部屋はC-108号室で、 Shiva,Nzさん,Uyさん,Tgさんが同じ部屋となった。隣の107号室はB1コースで 参加している同じ大学の先輩2人と、飯能天文同好会の2人であった。 部屋には2段ベッドが4つとロッカーが8つあるだけだ。ロッカーは今回のツアーの ために購入したもので、先程の南京錠をかけて使う。 大学寮の前に24時間警備員がいる。女子寮ということで、トイレは小便器はない。 トルコ式のトイレで、水道と小さな手桶が置いてある。 本来は手桶に水を汲んでお尻を洗い、紙で水を拭き、拭いた紙は流さない ということであるが、日本人にはなかなかなじめないということで、 我々は紙で拭いと構わないということである。ただし拭いた紙は流さず、 備えつけのごみ箱に捨てるとのことだ。
16:00、シワスの町を観光するバスが出る。シワスは、普段は観光客がそれほど 来るところではないが、歴史的には重要な町で、11世紀にはここに セルジュク・トルコの首都があったという。今回、日本人がいっぱい来ると いうことは、町の人たちも知っているようで、我々のバスが通ると手を振って くれたりする。はじめに、スーパーマーケットに行った。 Tgさんはまだバッグが見つかっていないため、生活用品も買う。 「まさかトルコで生活用品を買うとは思わなかった(Tgさん談)」 続いて、町にある遺跡にいく。途中、共同墓地があるという小さな建物があった。 遺跡は、チフトミナーレリ・メドレッセという1271年に建てられた神学校で、 2本のミナレット(塔)の部分と、入り口の部分が残っている。 入り口のところには、アラビア文字で何か書いてあるが、ガイドのHuさんも アラビア語は分からないとのこと。トルコは、1923年に共和国制を敷いてからは、 アラビア文字をやめて、ローマ字でトルコ語を書くようになった。 昨年改革75周年を迎えたことから、昨日から何度も、トルコ国旗の象徴である 三日月と星の左下に、75thと書かれた旗を見かけた。 神学校のすぐ隣は、お土産などを売っている店が並んでいる。 日食を当て込んで、その様子が書いてあるお皿も売っていた。 少し奥にモスクが見えたので行ってみた。モスクの中にも入ってみた。 お祈りしている人が映らないように何枚か写真を撮ってたら、 モスクを出たところで、老人に呼び止められた。 どうやら写真を撮った事がまずかったようで咎められたようだが、言葉が通じない。 そのうち、「ジャポン(日本人)か」と尋ねられたので、「そうだ」、と答えたら 急に笑顔になって、肩を叩いて「行って良い」と言われた(と思う)。
18:00、大学に戻る。19:00から食事。食堂に行く途中の掲示板に、今回の日食で 世界中からどれだけの人がこの大学に来ているのか、掲示されていた。 Magster Toursだけで338人。全部で600人以上が来ているようだ。 我々のツアーの人数は、全コースのスタッフも含めれば150人くらいになるはずである。 食事は昼と同じく給食方式(?)であった。出遅れたので、行列が伸びていた。 食後、学生寮の地階にあるシャワー室に行った。便宜的にシャワー室と呼んでいるが、 実際は、入り口にカーテンのついた1.5m四方くらいの個室が50区画くらい並んでおり、 各個室には、お湯と水の出る蛇口がついているだけでシャワーは無い。 水とお湯をバケツに入れて適温にし、手桶で体にかける。水の方は普通に出るのだが、 お湯のほうの蛇口がちょっとひねると盛大に出てきて、調整が難しい。 水とお湯の蛇口は、ひねる方向が逆になっていた。 後からMz店長に聞いた話では、前日まではお湯の出が悪く、ちゃんと出るように 大学当局にかけあったとか。不平が出ることを懸念していたそうであるが、 むしろ皆さんに受けていたので安心したとのこと。 Shivaはついでに洗濯もした。この旅行を通して、最初で最後の洗濯の予定である。 風呂の後、サッカー場の方に行く。北斗七星がシワスの町の上を下方通過しようと しているのが見える。サッカー場に着くと見事な天の川。バルジがはっきり分かる。 ペルセウス流星群の極大が近く、いくつか明るい流星も見られた。 皆さん望遠鏡の組み立てをやっている。今晩のうちに極軸を設定しておく。 5mおきくらいに、望遠鏡が並んでいる。いくつか望遠鏡を覗かせてもらった。 22:00、寮に戻る最終バスが出るということで、多くの人が、極軸を合わせた望遠鏡の 架台の部分だけ残して、戻っていった。Ynさんが、朝まで寝ずの番で、皆さんの機材を 見守るとのことであるが、一応鏡筒の部分だけは、寮に持って帰って欲しいと 事前に通達されている。Shivaはカメラ三脚なので、夜のセッティングはしない。 22:30、少しガスがかかってきたので寮に戻ることにする。寮までは歩いて15分位。 明日は、バスがピストン輸送するということである。 入れ違いにUyさんがサッカー場に来た。Nzさんはリブレットに音響カプラーを付けて、 寮の電話で通信を試みている。23:00、C-108号室で何人か集まって 宴会をはじめたが、Shivaは先に寝た。

第4日目(8月11日) シワス(日食当日)
6:00に目が覚めた。今日は日食当日。快晴だ。Uyさんと大学内を散歩して、 サッカー場で寝ずの番をしているYnさんの陣中見舞いに行く。 サッカー場につくと、望遠鏡の架台部分が並んでいる。 前夜、Nzさんらの望遠鏡の位置は確認していたので、Uyさんと極軸ずらしておこう などと冗談をいう。Ynさんは、寝袋に包まっていた。少し遠回りして寮に戻る。 建造中の建物が多い。カバーをかけられたままの彫刻などもある。 比較的新しい大学なのであろうか。
8:00、朝食。食後9:00から、同じツアーに参加している、明星大学(だったかな)の He先生の日食説明会がある。食事の後、寮に戻る際に、「晴れてるね」といったら 「それを言うな」と言われる。以前、朝、「晴れてる」とみんなでいってたら、 日食のときに雲が出てきた経験があるそうで、ジンクスを気にしているらしい。 10:00から30分おきにバスが寮とサッカー場の間をピストン輸送するということで、 機材を持って第一便に乗って、サッカー場に行く。会場の近くで日食Tシャツを 売っていたが、デザインがいまいちだったので買わなかった。 Nzさんらの架台の近くに陣取り、三脚の上に微動装置をつけ、 タカハシFC-60を乗せる。10:30すぎ、次の便でNzさんらが望遠鏡を持って来た。 Nzさんは、2本の望遠鏡と3台のカメラで太陽や周辺の様子を撮影するそうだ。 FC-60にD4フィルター(1/10,000減光フィルター)とアイピースをつけて、太陽を覗く。 大き目の黒点が3つほどあった。カメラをつけて太陽にピントを合わせる。 ピント確認はニコン純正のマグニファイア(ピント拡大ルーペ)を使った。 ちゃんとピントが合った。大丈夫、日本に忘れてきたパーツなどは無いようだ。 セッティングが終わり、望遠鏡を太陽の向きからはずして、タオルをかけておく。 FC-60はフローライト鏡なので、外気温になじませておかないと、 ピント位置が微妙にずれる。 サッカー場内を歩いてみる。鏡筒はBORG、架台はタカハシを使っている人が多い。 第1接触(太陽が欠け始める)が13:06:53.7'からということで、11:30、少し早めの 昼食。
12:30ごろ再びサッカー場に戻り、第1接触を待つ。 Shivaは小型の双眼鏡を持ってきていたので、ガムテープを借りて太陽グラスを 双眼鏡の対物レンズの前に、取り付けた。接眼部の方につけると、 集光された太陽の光で、太陽グラスが溶けることがある。 どこぞから、レントゲン用の大きなフィルムをもらって来たグループがあり、 周囲に受けている。日食中の周囲の状況を撮影するために、三脚の上に、 モーターで360度回転する装置をつけ、ビデオカメラを載せている人もいた。 主催者(たぶんYnさん)が、第1接触のカウントダウン。 「まもなく第1接触です... 20秒前...10秒前,9,8,7,6,5,4,3,2,1,0,1...」 20秒くらい待つと、双眼鏡でみている太陽の右上が欠けているのが分かった。 「予報が1日ずれていたらどうしよう」などと冗談を言い合っていたが、一安心。 食が進む。みんな思い思いに観測している。 45分前、主催者から、「45秒前です」の声。おいおい。あわてて訂正。 「45分前です」。みんな余裕で笑っている。「45分もずれていたら記録だよ」 どうやら、以前、5分くらい時間を間違えてカウントしていたことがあるらしい。 近くでピンホールを写しているグループがいる。日食の楽しみの1つだ。 太陽が欠けているため、ピンホールを通った太陽光が像を結ぶときに、 三日月の形になるのだ。Nzさんが、穴の開いたビスケットをかざす。 ビスケットの穴を通った光が、三日月形の像を結ぶ。 近くの家族連れの子供が、手の指をクロスさせて隙間から通る太陽光が三日月を 作るのを喜んでいる。夏休みの宿題だといって、気温を測っている。 穴の開いたビスケットをNzさんが子供にあげると、少しかじってしまった。 「食べちゃだめだよ」 ちょっと離れたところの木漏れ日が同じく三日月を作る。 影の輪郭のぶれが、縦と横で異なる。10分くらい前に皆既撮影用のリバーサル フィルムを装填する。レリーズを使って空撮り。万事OKだ。 いよいよ太陽が細くなってきた。「5分前です」。みんな自分の望遠鏡にはりつく。 バッゲージの間に合わなかったTgさんら飯能天文同好会の方々は、日食をバックに ビールで乾杯している写真を撮るとのことで準備している。 「こんなこと考えてたから、バッゲージが無くなったのかな(Tgさん談)」 Tgさんのバッゲージは、何度もエールフランスに電話しているにもかかわらず 「なしのつぶて」である。結局日食の当日に間に合わなかったので、開き直って 「今回は観望に徹する(Tgさん談)」のだそうだ。見方によっては一番贅沢である。 Shivaも自分の望遠鏡に掛かりきり。事前計画に従い、 カメラのアングルを合わせるため、写野に太陽をいれ、ピントの再確認。 双眼鏡の前につけた、太陽グラスを外す。周囲の温度もずいぶん下がってきた。 あとで聞いたら、日食前に比べ、皆既中は最大約10度ほど下がったそうだ。 「3分前です」ここで、事前計画に従い写野の端に太陽を持ってくるはずであるが、 D4フィルターをつけたままでは、いまいち写野の中のどこに太陽があるのか分からない。 背に腹は代えられない。この時点でフィルターをはずしてしまう。 まぶしいが、太陽の位置をほぼ計画通りの位置に合わせる。 金星が見え始めた。太陽の左下。太陽がどんどん細くなる。 「20秒前です... 15,14,13,12,11,10,9....」このあたりで、 ファインダーの中の太陽から、コロナが見え始めた。「コロナが見えてる」おもわず 叫ぶ。夢中でシャッターを切る。めまぐるしく太陽の見え方が変化する。 ベイリー・ビーズが見えて...「...2,1,第2接触です」ぴったり時間通りの潜入。 今回は月縁に深い谷が無かったようで、ダイヤモンドリングはそれほどでもなかった。 第2接触の前後で9枚撮った。皆既継続時間は2分3.8秒。 皆既に入り、まずはじめに、スナップ写真を撮る。 地上の風景といちおう太陽と金星をいれた写真を撮ったが、 後でみたら、ほとんど思いきり手ぶれしていた。あせっていたのだろう。 周りはみんな拍手。20秒位して、少し食が深くなってから、皆既の写真。 1/1000秒から1秒まで露出を段階的に変えて1枚づつ撮る。 撮り終わったら、第3接触に備え、露出を1/1000に合わせておく。この時点で残り45秒。 あとは双眼鏡で観望する。今年から来年にかけては、11年周期の太陽活動の活発期で、 コロナが全方向に均等に出ていて、見事である。プロミネンスの数も多い。 双眼鏡で見ると、コロナの微細構造が良く分かる。本当にすごい。写真とは全然違う。 「第3接触10秒前,9,8...」ふたたび、カメラに向かう。目で太陽を追い、 左手にレリーズ、右手に巻き上げレバー。第3接触も予測通り、 「0」と同時に太陽が再び顔を見せる。夢中で写真を撮る。 第2接触から第3接触の間で31枚、ほぼフィルム1本を撮りきった。 再び拍手。再び気温が上がりはじめる。 今回は双眼鏡でじっくり観望できる時間があったので大満足である。 撮影の方も、事前計画通り進んだ。 出来あがりが楽しみである。金星はまだ見えている。 望遠鏡で金星を見せているグループがあった。 部分日食中の太陽のような三日月が見えた。「今回はすごかったねぇ」と 何度も日食経験のある方々も、口々にいっている。 みんなが皆既の余韻にひたっている間に主催者の用意してくれていた、 ビールとジュースの差し入れ。みんなで何度も何度も乾杯する。 「TUBORG」ビールのTUを指で隠して「BORG」にしたりする。 主催者の方から、この旅行中に誕生日を迎える方などに、プレゼントの贈呈。 B1コースで参加している大学の先輩のKgさんもお祝いを受け取る。 同じコースで参加している、66歳のおばあちゃんもお祝いされていた。 この方は、日食のたびに毎回1人で参加されるそうで、名物だそうだ。 現地の子供たちが入ってきて、一緒に写真を撮る。 15:30、まだ太陽は欠けているが、シャトルバスで寮に戻った。 ひざが日焼けで痛い。あとで、Ynさんに聞いた話では、アメリカ人で、 シワスに自家用機で来て、日食をみて帰って行った人がいるらしい。 なんともうらやましい。
16:30、今日もシワスの市場を観光するバスがでる。市場は、人がいっぱいいた。 スパイスを売っている店、果物屋、パン屋などがある。親日的な人が多く、 握手を求められたり、売り物の葡萄をもらったりする。英語が話したいらしく、 子供が積極的に話し掛けてくる。写真を撮ってくれといわれパン屋に 連れて行かれる。出来あがったら写真を送って欲しいとのことで住所を渡される。 市場の後は、昨日も行った、チフトミナーレリ・メドレッセの遺跡に行く。 Shivaを含め数人は、昨日も行った所なので遺跡には行かず、日食Tシャツが売って ないかと、町を回ることにした。残念ながらTシャツは手に入らなかったが、 今日の夜の宴会のため、ワインを2本ほど買って、集合場所に戻った。 寮に戻る。日食のときには快晴だったのに、このころになると雲が出てきた。 シャワーに行って、19:30、食事に行く。夕焼けがきれいだったので写真を撮る。 20:30、雲が出てきたので、夜の観望はやめにして、部屋で宴会。 先程買ったワインを頂いたが、先に寝てしまった。

第5日目(8月12日) シワス〜コンヤ
朝、各コースが30分おきくらいに、順に出発することになっている。 Aコースだけは、昨日、日食のあと大学に泊まらず、夕方出発した。 我々の参加しているB2(トルコ10日間)コースは8:30出発である。 2日間お世話になった、大学のドミトリー(女子寮)からお別れである。 ロビーに行くと、新聞が置いてあった。SABAH新聞に、我々の観測風景が 載っていたが、見出しは全然関係ない町になっていた。コプティックの Ky社長の息子さんが望遠鏡を覗いている姿がアップで撮られていた。 朝食のあと、各コースが順に出発するのを見送る。 だんだんと我々の出発時間が近づく。寮の前で集合写真を撮り、バスに乗り込む。 今日から、KNTの営業で、このツアーで2年も前から準備してくれたYnさんが、 我々のコースに同乗する。Ynさんは、大量のミネラルウォーターとカップラーメン を持ちこむ。これらは日食観測と、夜の観測のために用意しておいたものであるが、 ほとんど手つかずでそのまま残ってしまったものだ。 Ynさんが乗っているせいか、Knさんの説明にも熱が入る。 Ynさんが2年前からの苦労話をする。最初にジュムフリエット大学にお願いに 行った時の話など。最後に、「我々がようやく道をつけて募集をはじめたら、 他の旅行社も同じ所で観測するツアーを企画してきた」という。 先鞭をつけた者としては、真似されてなおかつ安い値段で募集されて 面白くない気持ちは良く分かる。みんなYnさんの苦労は良く分かっている。 イランコースの方とも連絡がついたそうだ。晴れたらしい。
今日はコンヤ(Konya)という町を目指して、ひたすら移動する。 10:00、2日前にも休憩を取った同じ所で小休憩。前にここで休憩取った時も 同様だったが、休憩の後バスに戻ると、バスの中の蝿の数が増えている。 2日前に通ったカイセリ(Kayseri)の町を通る。行きには気づかなかったが、 信号の変わるパターンが日本と違うようだ。日本では赤信号で待っているとき、 交差する道路の方が赤になると、1秒くらいして自分たちの信号が青に変わる。 トルコでは、交差する信号が赤になると、自分たちの信号が、一瞬、 赤と黄色が同時に点灯し、そのあと青に変わる。バスのエアコンが弱く暑い。
昼食はカッパドキアの近くで、昔の大商宿 (らくだに乗って移動しながら商売をしていたアラブ商人のための宿) を模した造りのレストランであった。 ここで、他のツアーの人と情報交換。シワスから500kmほど北西のオスマニック (Osmancik)というところで見たグループは見れたそうだ。一方、アマシア (Amasya)というところに行った、天文ガイドだったかのツアーが雨だったらしい という情報が入ってきた。
食事の後、絨毯工場の見学があった。まず入り口から入ると、織り子さんが 何人か、織機に向かって絨毯を織っている部屋がある。部屋の奥で、 羊毛をつむいでいる女の人がいる。まずその人の所で、羊毛のつむぎ方の実演。 説明をしてくれるのは、妙に日本語の上手い、男の人。 時折ユーモアを交えながら、トルコ絨毯の説明。 つづいて、織機に向かっている織り子のところでトルコ絨毯の織り方の説明。 トルコ絨毯は2本の縦糸に、糸を2本とも結ぶため、表だけでなく裏側からも 同じ模様が見られる。表は冬に使い、夏は裏返して毛足の短い方を表にして 使うそうだ。続いて、奥の方の部屋に案内されて絨毯を見せられる。 ドリンクがもらえるということで、Shivaはラクというトルコのお酒を頂いた。 このお酒は面白いお酒で、水を入れると白くにごる。このにごった状態を、 「ライオンのミルク」と呼ぶ。前にジェムフリエット大学の寮で、別のコースの 人にラクを試したけど飲めなかったと脅かされていたが、Shivaは割と平気に飲めた。 飲み物を頂きながら、絨毯の見本市。良い絨毯とそうでないものとも見分け方など。 トルコの絨毯は、前述の通り裏返しても模様がしっかり出ているかどうかで、 まず粗悪品が見分けられる。あと手触りや、乗ったときの足の感触。 羊の胸の毛を使うか、背の毛を使うかで感触も値段も変わってくる。 実際に次から次へと絨毯が出てきて、靴を脱いで乗ってみろと言われる。 確かに感触が違う。素材によっても値段や模様が異なる。 羊毛を使ったものは、1cm四方に7×7個の結び目がある。羊毛と綿を混ぜたものは 8×8の結び目で、絹のものは10×10の結び目となる。面積あたりの結び目の数は、 羊毛の倍である。絹を使ったもので最も細かいものは20×20の結び目の ものもあるという。絹を使ったものは、見る角度によって、色が変わる。 トルコ絨毯のほとんどはカッパドキア地方で作られているとこのと。 カラフルな絨毯が多いが、昔、染料が無かった頃から伝わる、白い色は白い羊から 取った糸、黒い色は黒い羊から取った糸で織った絨毯も見せてくれた。 素朴な感じのする絨毯である。時折ユーモアを交えながら、このような説明がされる。 カラフルな絨毯、素朴な絨毯など次から次へと床に敷き詰められ、最後は販売。 「あなたたち、今日は絨毯買うためにトルコに来た訳じゃない。でも、 私の説明をきいて、欲しいという方いましたら、是非買ってってください。 …持って帰るの大変なら、私たち日本の伊藤忠商事と代理店契約してるので、 送ることできます。」息をもつかぬ勢いで、トウトウと説明をする。 営業の方々が入ってきて次々と契約する。 みんな日食の後で気が大きくなっているのか、テレビショッピングも顔負けの演説に 購入意欲を掻き立てられたのか、最終的に15組以上が契約した様だ。 日食が見られなかったら、売り上げも落ちていたかもしれない。 Shivaも1m四方くらいの小さめのもので、1つだけいいなぁと思った柄があったが、 値段を聞いたら38万円といわれて、あきらめがついた。 それだけのお金があったら次の日食の費用にする。
15:10、再びバスに戻り出発。16:50、3日前に休憩を取ったアクサライ(Aksaray) というところで20分の休憩。日食の記事が載ったトルコの新聞と、 ナザール・ボンジュと呼ばれる目玉模様のトルコの魔よけのキーホルダーを買う。 この後いくつかドライブインを回り助手のElさんが聞きに行くが、 我々の観測風景が掲載されているSABAH新聞は手に入らなかった。残念。 今回の日食に際し、トルコで記念硬貨を出しているそうだ。 HuさんからMagister Toursにお願いして、手に入れられるかもしれないということで、 注文を取る。もし手に入れられたら、イスタンブールで渡せるとのこと。 Shivaも、もちろん頼んだ。
どこまでも平らな平原を走り、コンヤ(Konya)が近づいてきた。コンヤは面積では トルコ最大の町で、酒や売春なども多いそうだ。 今夜泊まるのは、「ホテル・ドゥンダール」でコンヤで最高級のホテル。 コンヤは観光開発にはあまり積極的ではなく、市長が5つ星のホテルを 作らせないらしい。「ホテル・ドゥンダール」も4つ星で、エレベータのドアが 手動式であった。我々(ShivaとNzさん)の部屋は1404で、隣の1403にUyさんとTgさん。 ホテルの地下にハマムという、トルコ式の風呂があるそうだ。 日焼けした膝が心配であるが、これは是非試さねば。 夕食を食べる。道をはさんで、すぐ隣にモスクがある。エザン(お祈りの合図)が 聞こえてきた。20:30、ハマムは21:00までが男性ということで、食事もそこそこに Ynさんらに見送られて、ハマムに行く。 ハマムに入ると、我々のグループばかりでShivaをいれて7人がいた。 真ん中に大理石の台があり、台の一部が熱くなっている。周囲に蛇口が並んでいる。 台に座って待つ。噂どおりサウナのような状態で汗が出る。 しばらく待つと、おじさんが入ってきた。蛇口の所でスタンバイ。 まずはTgさん(だったかな)。頭からお湯をかけられて、シャンプー。 そして息をもつかせぬ勢いでジャブジャブお湯をかけられてシャンプーを流される。 続いて垢すり。腕、背中、足。終わると再びジャブジャブお湯をかけられて、終了。 「ニバン!」の声で、つづいてUyさん(だったかな)。ボーっと見てると、 お湯が飛んできた。Shivaは「ヨバン」の声でだれも動かなかったので、おじさん の前に行く。他の人のを見ていて予期していたが、水の勢いはすさまじい。 息継ぎが大変だ。耳に水が入る。垢すりは予想以上に垢が出て自分でもビビる。 足の垢すりで、日焼けした膝が心配であったが大丈夫であった。Shivaが終わって 次の人が垢すりしている時にもう1人のおじさんが入ってきた。マッサージである。 1番のTgさんが、真中の台の端にあお向けに寝る。シャボンを全身にかけられて 足からマッサージ。ユーモアのあるおじさんで、Tgさんの足をくすぐる。 次にうつ伏せにして、腕のマッサージ。脇をくすぐる。背中に乗って変な歌を歌う。 「サークーラー、サークーラー」どうやら、「桜」らしい。 終わったらシャワーを浴びて終了。全員の垢すりが終わると、 こちらの方のおじさんもマッサージををはじめた。かつて、日本で「トルコ風呂」 と呼ばれていた風俗産業があったが、分からないでもない。 21:30、終了。ハマムの入り口でこれからハマムに行く同じグループの女の子たちと すれ違った。「どんな感じ?」と聞かれ、「なかなか良かったよ」 「息継ぎの練習しといた方がいいよ」などと言ってすれ違う。 女性は、女性にマッサージされるのかと思っていたら、同じくあのおじさん達 だったようで、翌日、妙に受けていた。「あのおじさん、日本につれて帰りたいね」
ハマムから部屋に戻る。この日、NzさんのLibrettoを借りて、 天文メーリングリスト(AML)の方に、昨日の日食の速報を送った。 さらにNzさんと、ネットサーフィンして日食の情報収集。 どうやらヨーロッパでは、概ね、ルーマニアから東で見られたらしい。 ほぼ、事前の天気予想通り。やはりトルコに来て正解だった。 ドイツ以西はほぼ全滅だったようであるが、ドイツのミュンヘンでは 一瞬みれた様で、ミュンヘンに行ったShivaの知り合いはどうだったのかか気になる。 (旅行後、皆既の一部が見れたとの情報が入っていた) 0:00ごろ、ホームページのアップをするためにまだLibrettoに向かっている Nzさんを横にShivaは先に寝た。

第6日目(8月13日) コンヤ〜パムッカレ
8:00、出発。まずはコンヤ(Konya)の市内観光。まず最初にカラタイ神学校に行く。 今日は、トルコの公務員のストがあるとかで、市内のバス乗り場に行列が見える。 カラタイ神学校は8:30から見られることになっているが、 通常は少し早めに入れてくれるらしい。 今日はストなので、時間まで入れてもらえそうになかったが、 Huさんが交渉した結果なんとか8:20に入れてもらえた。 カラタイ神学校は、13世紀のセルジュク・トルコ時代に出来た天文学の学校で、 今は板張りになっている天井が当時はガラスで出来ていて、建物の中にある プールに水を張り、水面に映る星を見ていたという。建物の中は、 壁から天井にかけて、幾何学的な模様が青いタイルで描かれており、 これがセルジュク・トルコ時代の特徴だそうだ。 壁には、同じく青い色をした陶器が並んでいた。 赤などのカラフルな色は、13世紀以降、オスマン・トルコの時代になってから 使われだした色らしい。
続いて、同じくコンヤ市内の、メブラーナ博物館に行く。 ここはかつてメブラーナ先生が開いた神学校だったところで、 先ほどのカラタイ神学校が天文学の学校だったのに対し、メブラーナ神学校は 宗教(イスラム教)の学校だった。イスラム教では、すべての人は宗教によらず 神の前で平等であるという、他の宗教には寛大な教えであるそうだが、 メブラーナの教えは厳しいものであったらしく、メブラーナ教は20世紀まで 続いたものの、この厳しい教えが災いして、1923年トルコを改革したアタチュルクが、 メブラーナを禁止したという。 金曜日はイスラム教の祈りの日ということで、メブラーナ博物館の前に行くと、 開場前から沢山の人が並んでいた。開場は9:00からとのことで10分位ここで待つ。 我々も観光客ではあるが、肩が出ない服装と、女性の方はスカーフを かぶってほしいということで、女性の方は思い思いにカラフルなスカーフを 頭からかぶる。中はメブラーナとその家族の棺や、コーランなどがあった。 携帯用と思われる、手の中に入る位の大きさのコーランもあった。 メブラーナ神学校も、カラタイ神学校と同様、セルジュク・トルコ時代の 建物であるが、一部赤いタイルが使われている部分があった。 オスマン・トルコ時代に修復された部分だそうだ。 隣の建物に入ると、10歳くらいの女の子が絵皿を描いていた。 写真を撮らしてもらう。出来あがった写真を送って欲しいと名詞を渡される。 博物館を出て、バスまで歩く。物売りの少年らが、「ジュッコ、センエン」と いいながら、絵皿を手に持ってまとわりつく。
9:40、コンヤ出発。山道を上っていく。山腹から、コンヤの町が良く見える。 少し離れたところに火山が見えた。10:40、バスが停まった。運転手が降りていく。 後ろにパトカーが停まっている。どうやらスピード違反で つかまってしまったらしい。罰金は10,000,000TL(=約2,700円)とのこと。 今日は公務員のストと聞いていたが、取り締まりはしっかりやっているようだ。 そう言えば、前の日だったかも、ねずみ取りをしているのを見かけた。 12:00、休憩。だんだん地中海性気候のエリアに入ってきて木が増えてくる。 しばらく行くと湖が見えてきた。エイドゥル湖(Egirdir)である。 バスは湖を半周する。りんごの木が多い。この辺りはりんごが名産品だそうだ。 イスパルタという湖のほとりの町で昼食。 目の前に湖が広がる、オープンカフェタイプのレストランだった。 りんごが名産ということで、りんごジュースを頼む。味が濃くて美味しかった。 白黒のぶちの犬がはしゃいでいたが、そのうち繋がれてしまった。 昼食の後、少し時間があったので湖のほとりを歩く。少し高いところに遺跡の ようなものがあったので、登ってみた。砦の跡のようで、使われなくなった大砲が 置いてあった。レストランの方に戻る。子供達が湖で、水遊びをしている。 バスに戻り、出発。湖と別れ、軍の施設のすぐ横の山道を登って行く。 15:30、バスで走行中であるが、携帯電話で連絡がついたのであろうか、 KnさんがTgさんのところに来た。どうやら、ロストしていたスーツケースが、 パリで見つかったらしい。タグが全部無くなっており、 スーツケースは壊れて使えない状態だそうだ。中身はどうなっているのか、 分からないらしい。エールフランスの方で仮のスーツケースを用意するとの ことで、イスタンブールまで回送してもらい受け取ることにしたようだ。 なかなか出てこなかったので、KNTが、日本からもクレームを入れてたらしい。 ひとまず、見つかったことは嬉しいが、スーツケースが使えない状態ということで、 一抹の不安が残る。16:20〜35、ディナー(Diner)という町で休憩する。
18:00、前方に白い崖が見えてきた。パムッカレ(Pamukkale)である。 パムクというのは綿のことで、パムッカレというのは綿の城という意味だそうだ。 実際は綿ではなく、温泉から湧き出したカルシウムが作った石灰棚である。 パムッカレに隣接するように、東ローマ時代の都市、ヒエラポリス(Hierapolis) の遺跡がある。ヒエラというのは、この町を創った人の奥さんの名前だそうで、 この町は紀元前3世紀から、紀元後8世紀くらいまで栄えていたそうだ。 バスは、ヒエラポリスのお墓の中の道を登っていき、パムッカレの頂上付近の 駐車場に停車した。1時間ほど自由観光。まずパムッカレの白い石灰棚に行ってみた。 靴を脱いで裸足で歩くとのことで、足が痛い。近年温泉の水量が減っているためと、 自然保護のため、数年前まではここで泳げたのであるが今は遊泳禁止である。 続いて、ヒエラポリスの円形劇場の方に行ってみた。2世紀のもので、約8,000人 収容できるとのこと。後ほど聞いた話では、ローマの円形劇場は、だいたい 町の人口の1割程度が収容できる大きさだそうで、ヒエラポリスの人口は、 約8万人から10万人くらいだったと推定されているらしい。 駐車場に戻り、パムッカレ・モーテルに入る。ここには、ちょっと変わった プールがある。プールの底に、古代ローマの遺跡が沈んでいるのだ。 遺跡と石灰棚の観光が終わり、バスでホテルに行く。ホテルはここからバスで、 10分くらいのところのポラット・サーマル・ホテル。ホテルに行く途中でガイドの Huさんが、「私の知り合いが、先程の遺跡のプールに勤めているので、 希望者が多いようなら、今夜、少しの間泳げるようにお願いします」との提案。 人数にもよるが、1人あたり20$位とのこと。Shivaは水着を持って来てなかったが、 ホテルの売店で28ドルで売っていたので、カードで買ってしまった。 この後、日食記念硬貨の代金も用意しなくてはならないし、少し現金が心細く なってきたので、ホテルで換金することにする。しかしレートを見ると このホテルの日本円は、かなり低い値だったので、米ドルTCを持ってきたNzさん に70$をTLに換えてもらい、Nzさんに70$分の日本円を払うことにした。 Nzさんに感謝。事前案内の時に、米ドルは特に持って行かなくても大丈夫と 聞いていたが、やはり米ドルは持ってくるべきだったと少し後悔。 Nzさんは、ホテルでやるベリーダンスを見ようと誘われてしまったとのことで、 同じくホテルに残るUyさんと部屋を交換する。NzさんとUyさんが218号室で、 ShivaとTgさんが219号室となった。
21:20、Tgさんとプールに行くために、ホテルのロビーに行く。 結局プールに行くのは、KNTのYnさんを含め10人あまり。 例の66歳の名物おばちゃん(Koさん)も来た。 プールまではバスで行く。夜のヒエラポリスのお墓の横を走る。 いつのまにか、1人増えていたりしてなどと冗談を言いあう。 夜のプールは、我々の貸切であった。プールは温泉で、温かかった。 今日はこのまま、風呂に入らない方がいいといわれる。 昨日はハマム、今日は温泉、プールの底にローマの遺跡、上空には夏の大三角形。 なんとも贅沢である。 ガイドのHuさん、ドライバーのMmさん、助手のElさんさんも泳ぎに来た。 1時間くらい泳いでいたであろうか、結局1人あたり10$、4,500,000TLで おおいに楽しませてもらった。ホテルに戻ると、まだベリーダンスをやっていた。 少しベリーダンスを見てから、部屋に戻る。添乗員のKnさんが腹踊りをするらしい という話が流れていたが、残念ながら無かったようだ。 (註:Knさんは女性です、念の為。ちなみに、Huさんも女性です)

第7日目(8月14日) パムッカレ〜エフェス〜イズミール
7:30、今日は移動距離が短いが、遅くなると暑くなるということで、 今日も7:30に出発。218号室は、昨夜、蚊がすごかったようで、 NzさんとUyさんは寝不足だという。部屋を交換しなかったら、 Shivaが寝るはずだった部屋である。 出発しようとすると、218号室の電話代が一部未払いとかでトラブる。 夜、Nzさんは例によってインターネットをしていたらしいが、 未払いの分は清算後の明らかに朝食時間中の時間帯の分だったので、 ホテル側のミスだということで落ち着く。パムッカレの白い崖の下で 少し写真休憩を取ってから、エフェスに向けて出発する。 9:30、再び休憩。ここにHuさんKnさんお勧めの、トルコのお菓子を 売っているとのことで、お土産に買う。 昨日換金したので、この時点で残金35,670,000TL。
11:00、エフェス(Efes)到着。バスは遺跡の上の門のところで我々をおろし、 下の方の門で待つ。我々は、遺跡を見物しながら下って行く。 遺跡の入り口で、「Su,Su,Su」「ミズ、ミズ」といいながら水を売っている。 我々には、観測のとき余ったミネラル・ウォーターがまだ大量に残っている。 エフェスは、紀元前11世紀ごろ、トロイ(Troy)の方から来た、アンドロクロス という人が開拓した町で、その後、紀元前7世紀にはリディア王国、 紀元前6世紀にペリシア王国、紀元前4世紀にはアレキサンダー大王の支配下 となった(ローマ帝国)。紀元前3世紀にはマラリアが流行したため町を 山の方に移したりもしている。紀元前2世紀頃は、エーゲ海付近の町は、 すべて東ローマ帝国の支配下であったらしい。 その後、4世紀にコンスタンチヌスがビザンチン帝国として支配するが このころになると町は衰退した。 このように何度も町の支配が変わったため、町も何度か作り直されている。 14世紀にはこの辺りはオスマン・トルコの領土となり、1923年の改革後 発掘が始まった。 紀元前3世紀から紀元後4世紀のローマ帝国の時代が最も栄えていたらしく、 このころは水道が発達し、市役所や国会議事堂などの建物もあったという。 我々が入った上の門は、「マグネシア門」という名前で、マグネシア街に行く ことから名づけられたという。エフェスにはこの他に下の門と港の門という 2つの門がある。現在は海から遠く離れているが、この街ができた当初は、 近くまで海があったらしい。上の門から入り、劇場跡、市役所、議事堂 などの跡を見ながら、下りていく。浴場の跡や、公衆トイレの跡、 きれいなモザイクが敷き詰められた道など、本でしか見たことの無かった 古代ローマの遺跡が連なっている。ギリシア文字が入った柱や、彫刻などが、 そこかしこにある。彫刻の多くは、首から上が無くなっている。これは、 20世紀初頭、ここを発掘した欧州のチームが、首だけ上を自国に 持ち帰ったためだという。胴体部分は重かったため、残されたらしい。 大英博物館などにある古代ローマ時代の彫刻などの95%は、 トルコから持ち出されたものらしい。 現在は発掘の際に、必ずトルコのチームが加わることになっているとのこと。 しばらく行くと、眼下にひときわ大きな遺跡が見えてきた。図書館だという。 隣にアゴラと呼ばれる、市場跡がある。 リディア王国時代、世界で始めてコインを使って取り引きをしたという。 図書館前で右に曲がり、大理石通りを進む。途中、娼婦の宿を示していたという 足型があった。突き当たりに円形劇場がある。この劇場はトルコでは最大で、 収容人員は約25,000人だという。この街はかつて25万人くらいの人が 住んでいたことになる。劇場は、正面が海の方にあるため、 海から吹く風によって劇場のすみずみまで、音が伝わるしかけだそうだ。 この劇場は、今でもコンサートなどで使われているらしい。
13:00、遺跡の見物を終えてバスに戻る。13:20、レストランにて昼食。 黒鯛の料理。トルコ料理は比較的日本人の口にはあうが、 さすがにそろそろ飽きてくる。昼食後、エフェス博物館に行く。 遺跡から発掘された、ローマ時代の彫刻などが並ぶ。 多産と豊穣の神、アルテミスの像が印象的であった。
15:45、博物館の観光を終えバスに戻る。 今日はこれからイズミール(Izmir)に向かう。 17:00、バスの前に突然エーゲ海が現われた。イズミール到着である。 イズミールは、イスタンブール,アンカラに次いで、三番目の町である。 ホテルはビュック・エフェス。ShivaとNzさんは331号室で、 TgさんとUyさんが隣の330号室。夕食は19:30からホテルの最上階と いうことで、夕食までの時間、市内観光することにする。 18:00、Shivaが観光に行こうと思って部屋を出ると、 ちょうどTgさんとUyさんがやはり出かけるところだった。 3人で観光に行く。 海沿いの道を時計塔(Saat Kule)の方に向かって歩くことにした。 イズミールは港町であるが、軍港の設備もあるようで、 トルコ軍の軍艦が停泊している。海は思ったより汚れていた。 時計塔からバザールに入る。バザールの入り口に警察官が並んでいて、 出入りする人の身体検査をしているが、我々は特に何も検査されず 通してもらえた。バザールの中はすごい人ごみである。貴金属店や、 衣料店などが並んでいる。のどが乾いたので、ジュースを飲む。 150,000TLであった。バザールの中にもモスクがあった。 道は円弧を描くように曲がっているようで、自分がどちらに 向かっているのが分からなくなる。太陽の方向で方角を知る。 適当なところで、円弧の道から外れてバザールの外に出る。 出口にも警察官が並んでいた。つづいて、古代アゴラ(Agora) の遺跡に向かった。古代アゴラはローマ時代の市場の遺跡である。 残念ながら、時間を過ぎていて中には入れなかったが、上の道路から 柱などが立っているところが見えた。 人通りの少ない裏通りを通ってホテルに戻る。途中でHuさんに会った。 19:10、ホテルに戻ると、中庭で結婚式をやっていた。 19:30、最上階のレストランに行く。エーゲ海に沈む夕日がまぶしい。 日が沈むと、夜景が美しかった。 景色は良かったが、食事はいまいちであった。部屋に戻る。 中庭の結婚式が佳境に入り、夜遅くまで大音響で演奏が続いた。

第8日目(8月15日) イズミール…イスタンブール
朝、起きて、昨日のメモを読み返していたら、いきなり電気が消えた。 ホテルだけかと思ったら、どうも周囲の建物も停電だったらしい。 朝食は昨夜と同じく、最上階のレストラン。 窓の外に並んでいるテーブルで朝食を取る。 7:40出発。この旅行の最終目的地、イスタンブールに向かうため、空港に行く。 8:00、アドナン・メンデレス空港着。ガイドのHuさんはイスタンブールも 同行するが、ドライバーのMmさんと助手のElさんとは空港でお別れ。 Shivaはまたもやすべての荷物を機内持ち込みにする。お土産が増えているが、 なんとかピギーバックとデイバックにすべての荷物を押し込んだ。 イズミール発イスタンブール行きトルコ航空TK313便、機体はA310。 座席は23Bであった。9:23、機が動き出して、9:30に離陸した。 簡単な朝食が出たと思ったらすぐに回収。10:06、イスタンブール着。 イスタンブールは、紀元前7世紀にビザンチン帝国として建設された。 4世紀には、ローマ帝国(東ローマ帝国)の首都として栄え、 その頃はコンスタンチノープルと呼ばれていた。 その後1453年にオスマン・トルコがこの街を征服し、イスタンブールと 呼ばれるようになる。 14世紀から15世紀にかけてオスマン・トルコはアナトリアからルーマニア にかけての地域を支配していたが、17世紀にはアラビア半島、カスピ海、 東欧、エジプトの一部のあたりまで領土を広げている。その後第1次世界 大戦で敗れて領土を縮小し、1923年の改革で、現在のトルコ共和国に至る。
10:45、バスに乗る。今度のバスは、クーラーが効き過ぎるくらいだ。 11:00に出発したが、すぐに国際線のターミナルに向かう。 TgさんがKnさんとエールフランスのカウンターに行く。ロストしていた スーツケースの中身を受け取りに行くのである。Ynさんもバスを降りて、 一緒に行く。11:15、YnさんがコプティックのKy社長と連れだって、 バスに戻ってきた。TgさんとKnさんを空港に残し、とりあえず我々は 今日の最初の観光地、トプカプ宮殿(Topkapi Sarayi)に向かう。 TgさんとKnさんは、後ほど合流する。Ky社長は、イランコースの方に 参加していて、この日から我々のコースの方に合流してきたのである。 ちなみにKy社長の奥さんは我々と同じくトルコB2コースで、 一緒に行動していた。 トプカプへの移動中、Ky社長から、イランコースの報告がある。 イランでは、30kmほど離れた、ホテル近くと中心帯近くの 2箇所に別れて観測したそうであるが、両方とも成功したそうだ。 イランへは、パリ→イスタンブール→テヘランというコースで36時間 かかって、8月4日に現地入りしたという。厳格なイスラム教の国のため、 空港も、出口は男女別。路線バスも男女で前後に別れているという。 女の人は、全身を黒い布でつつんでいる。 もちろん旅行者もそれに準じた格好をさせられるとのことで、 Kyさんが持ってきたツアーの写真も、女性の方はそのような姿であった。 テヘランからイスタンブールに戻る機内で眠っていたところ、 乗る時には地味な格好だった周囲の女性客が、 いつのまにか華やかな姿になっていて、驚いたという。 ホテルには、各部屋にメッカを示す矢印があるという。 アルコールは一切ダメで、持ちこめば、当然密輸でつかまる。 アルコール抜きのビール(らしき飲み物)は、あるとのこと。 気温は、日中45度くらいまで上がるが、夕方は20度くらいになるという。 日食には総勢200人の日本人がイラン入りしたらしい。 イスファーンでは、第2接触の際に、気温が39度から33度まで 一気に6度も下がったそうで、このためホテル近くの観測場所の方では、 第3接触が終わって部分日食にはいってから日食雲が出たという。 芝生に散水していたため、多少湿気があったのかもしれないとのこと。 中心線近くの観測地の方は、現地の高校のグラウンドで 行なったらしいが、現地の人が塀の外からしきりに覗いていたらしい。
11:40、ブルーモスクの横を通りトプカプ宮殿に行く。 バスを降りて入り口まで歩く。宮殿の入り口で、 X線検査装置と金属探知機によるセキュリティチェックが行なわれる。 先に宮殿内のレストランで食事をする。眼下にボスポラス海峡を 望むレストランで、昼食はシシカバブであった。 すぐ下に電車の線路があるらしく、時折轟音が聞こえる。 隣との間隔が狭い。昼食を食べていると、TgさんとKnさんが合流した。 望遠鏡とカメラとレンズとテレコンバータが無くなっており、 その他の物も、機械部品はことごとく破損しているという。 夜、ホテルで見せてもらうことにする。 昼食の後、宮殿内の宝物殿に行く。ここには、 世界最大のエメラルドと世界で2番目に大きいダイヤモンドがある。 エメラルドの方は、かなり大きく一世代前の携帯電話くらいあったが、 暗くてよく見えなかった。ダイヤモンドの方は、エメラルドを見た後 では小さく感じた。このダイヤを見つけた人が、スプーン3本で スプーン職人に売ったことから、スプーン職人のダイヤと呼ばれている。 時間があったので、衣装の間や宗教遺物の間に行った。 宗教遺物の間は、天井が綺麗だったのが印象に残った。 最後に、陶器展示室と食品展示室に行った。 日本の有田焼などもあったが、あまり興味が無かったので 青い陶器が並んでいたことくらいしか印象に残ってない。 残念ながら、団体旅行のためハレムには入れなかった。 ハレムというのは、禁止という意味のハラムという言葉が語源らしい。 男子禁制だったことからこのように名づけられたという。 スルタンと宮廷女性の生活の場で、戦場で捕まえた 黒人捕虜の宦官以外の男性は入れなかったという。
13:20、トプカプ宮殿からブルーモスクに移動する。 時々、雲がかかる。日食の前は雲が出るたび、やきもきさせられたが、 今は雲がかかると涼しくて喜ばしい。勝手なものである。 途中、大音響と人だかりがある。ラリーをやっているらしく それらしい車が数台走り抜けていった。 移動途中後ろを振り返ると、トプカプ宮殿とアヤソフィア(Ayasofia)が 良く見える。アヤソフィアは537年、ローマ帝国が教会として建造した もので、1453年5月29日まで、教会として使われていた。 オスマン・トルコがこの地を征服した後、ミナレットをつけ、 聖堂内のモザイクを漆喰でぬりかためて、モスクにしたという。 4本のミナレットのうち最初に創られた1本だけが、 異なる色をしている。ブルーモスクに行く途中で、He先生と会った。 He先生は、シワスで我々と日食を観測した後、 イスタンブールでやっていた学会に行っていたらしい。 綺麗な衣装を着た、男の子がいた。 割礼式だそうで、王様の格好をしているとか。 さしずめ日本でいうところの、七・五・三と言ったところだろうか。 ブルーモスクは、6本ものミナレットを持つ。 中に青いタイルを使っていることからこの名前がついた。 中は、4本の柱とアーチ構造で屋根を支えており、かなり広い。 前方の方が柵で区切られており、ここから前が男の人の礼拝する場所らしい。 柵の後ろに我々観光客がうろうろしているが、 さらにモスク内の一番後ろの狭い空間が、女性が礼拝するための 場所だという。礼拝の前には、必ず手などを洗うそうである。 16:30〜17:30、免税店でツアーお決まりの買い物の時間であるが、 宝石にもバッグにも興味がないので、Sgさんと旧市街を 歩くことにする。グランバザールの前を通り、路面電車に沿って坂を 下っていく。途中、12歳前後の女の子が話し掛けてくる。 しばらく相手をしていると、どうやら我々を自分の絨毯屋に つれて行きたいらしい。お金持ってないよ、というとあきらめたようで、 どこかに消えた。ぐるっと回って免税店に戻ろうとしたが、 道が分からなくなってしまった。しかたなく、路面電車の通りに戻り、 元来た道を帰る。免税店に着いた時には、汗だくになっていた。
ホテル行くためにバスに戻る。コマのようなおもちゃを10個以上持った 子供が「ゼンブデ、センエン」と言って、我々にアピールする。 Uyさんが1個だけTLで買ってバスに乗って遊んでいたら、 後から「ゼンブ」持ってバスに乗ってきた人がいた。 明日は、オプショナルツアーでボスポラス海峡のクルーズツアーがあるが、 オプションを申し込んでいない人のために、 合流場所となるタクシム広場のそばの日本料理屋の前に行く。 「優曇也」とかいて「うどんや」と読む。 皆既日食に曇りは縁起悪いなどと口々に言う。
18:00、ホテル到着。ホテルは、メルキュール・ホテル。 オリエント急行の乗客を泊めるために建てられた、ぺラ・パラスホテルの 隣である。部屋は、ShivaとNzさんが802号室、TgさんとUyさんが901号室。 Ynさんが、ずーっと抱えてきた、カップラーメンを配る。 Nzさんも貰った。 6:30、夕食まで1時間あるので、街を歩く。途中でSgさんにすれ違った。 7時過ぎ、ガラタ塔に行くために、一旦ホテルの前を通りかかったら、 ぺラ・パラスホテルから、同じツアーに参加しているNmさんとOyさん が出てきた。ぺラ・パラスホテルにある、アガサ・クリスティーの部屋を 見てきたという。Shivaも興味をひかれたが、ガラタ塔と両方行くには、 ちょっと時間がなかったので、諦めてガラタ塔に行くことにした。 ガラタ塔は、陸海の見張りとして建てられた塔で、 今の塔は1349年に建て直されたものだという。 思ったより遠かったので結局5分ほど食事の時間に遅刻して しまった。
12日に予約を取った、皆既日食記念硬貨が無事入手できたようで、 食後に配られた。 先程ぺラ・パラスの前ですれ違った、NmさんとOyさんがガラタ塔に 行きたいと言う。夜になって女の子だけでは心配なのと、 途中、道が少し分かりづらいので、Nzさんも誘い、Shivaが道案内を 買って出た。 21:00、いつの間にか、夜のガラタ塔ツアーが広まっていたようで 結局11人ばかりが行くことになった。Knさんに、治安に気をつけるように 言われ、カメラと小額のお金だけ持って出発。なぜかShivaが 添乗員ということになっていた。途中、月が綺麗だった。 ガラタ塔は、上の展望部分の明かりが灯っていて、その上に電飾があり なかなか綺麗だった。頭上に夏の大三角も見えた。 残念ながら、塔の上には上がれなかった。下の広場で夜にもかかわらず 子供達がサッカーをしていた。 せっかく塔まできたので、ガラタ橋まで下ることにする。 途中、エザンが聞こえてきた。 銀行の前を通りかかった時、いきなりインターホンから声が聞こえた。 センサーに反応して自動応答しているようだ。 ガラタ橋は、金角湾にかかる橋で、旧市街と新市街を結んでおり、 我々は新市街側にいる。対岸の旧市街の夜景が綺麗に見える。 モスクがライトアップされており、西の空には、今しも沈もうとしている 月が見える。みんな思い思いに夜景を撮る。さすがみなさん天文ファン。 夜景を撮るためにフラッシュを焚く人はいなかった。 Ktさんは、道の向こうにまで遠征して、何枚も写真を撮っていた。 Ktさんを待ってホテルに戻る。 23:00少し前、Tgさん2人でぺラ・パラスホテルに行って、ダメ元で クリスティの部屋を見たいと言ったら、こんな時間にもかかわらず 思いがけず開けてもらえた。 当時から使っている、木のエレベータに乗ってクリスティの部屋を見学。 壁に写真などが貼ってあった。お礼を渡し、自分のホテルに戻る。 Tgさんに、エールフランスから帰ってきたバッゲージの中身を見せて もらうため、901号室に行く。同じくバッゲージの中身を見ようと 部屋で待ち構えていた女の子3人らと、中身を見せてもらう。 見た目には壊れているのか分かりにくい。 が、昼に聞いた通り、機械部品はことごとく破損していた。 被害総額約70万円。エールフランスが弁償するということで、いちおう 話はついているらしい。しかし、また0から揃えるのは大変である。 救いといえば、各地で買った日食Tシャツが無事出てきたこと。 こればかりは、2度と手に入らない。部屋に戻りNzさんを待って シャワーを浴びる。Ynさんから貰ったカップラーメンを食べながら Librettoに向かうNzさんを横に、Shivaは先に寝た。

第9日目(8月16日)〜帰国まで イスタンブール…パリ…成田
いよいよ、この楽しいトルコ旅行も、最終日となってしまった。 (註:成田到着は翌日の日付です。念の為) 今日は、オプショナルツアーのボスポラス海峡クルーズがある。 ホテル前で、オプショナルに申し込んでいない方々と別れる。 9:00、昨夜来たガラタ橋近くの船着場から、船に乗り込む。 船は1階部分が客室と操舵室、屋上はオープンデッキになっている。 1階部分だけで70〜80人くらいは乗れそうな大きい船であったが、 我々の貸切であった。もちろんオープンデッキに上がる。 金角湾からボスポラス海峡に向かう。ガラタ塔が見える。結構ゆれる。 ボスポラス海峡に入ると針路を北にとり、黒海に向かう。 Huさんは操舵室のマイクで、ガイドをする。 昔の宮殿や、トルコのお偉いさんの親戚の方の別荘など。 第1ボスポラス大橋が見えてきた。英国の会社が、1963年から10年間 かけて作った橋で、この橋で初めてアジアとヨーロッパが結ばれた。 世界第5位の橋で、1000mあるという。ちなみに、第2ボスポラス大橋は 1090m(世界第4位)で、日本の石川島播磨が作ったという。 その第2ボスポラス大橋のたもとには、ルーメリア城がある。 ルーメリア城は、ビザンチン帝国の支配下だったイスタンブールを征服するため、 1452年にオスマン・トルコのメフメット2世が築いた要塞である。 このあたりは、海峡の幅が約660m最も狭く、いわば黒海とエーゲ海を結ぶ 海の交通の要所であり、ここにルーメリア城が作られた理由となっている。 Huさんが、「今操船してるのはAm(ツアー参加者)さんです」と言う。 みんなで、1階の舳先の方にある操船室に行き、入れ替わり立ち代り操船 させてもらう。我々は、トルコ近海での操船免許など持っていないので、 アクまで船長の指揮下での操船であるが、しばしボスポラスクルーズを楽しむ。 (註:Amさんは4級船舶を持っているらしい) もちろんShivaも、操船室に入り、舵を廻させてもらう。 舵を切ると、ややあって船がググググと回頭する。気持ち良い。 Huさんが、「今日は船が来ないから、多分タンカーが通るのではないか」 という。その言葉通り、しばらく行くと黒海の方から、水先案内船に先導され、 タンカーがやってきた。左舷は見えなかったが、右舷にタグボートが、 張り付いてタンカーの頭を右から押し、操船の補助をしている。 黒海の方の水の色が違うのが分かる。 2時間くらいだろうかボスポラスクルーズを楽しみ、船を下りる。 バスが先回りして我々を待っていた。今クルーズしてきた海峡を左窓に見ながら バスでイスタンブールに戻る。先程のタンカーがまた見えた。
11:45、時間通りオプショナルに参加しなかった方々と合流する優曇也に到着。 昼食は数日前に注文を取っておいた日本食。Shivaは寿司とミニうどんのセット を頼んでいたが、味はいまいちだった。ほうじ茶が一番美味しかった。 13:45、空港に入りチェックイン。Shivaは、例によって荷物の持ち込みの申請 をする。カウンターの係員はOKしてくれたのに、離れていた係員に、 荷物が重過ぎるから、持ちこみは出来ないといわれ、結局有無をいわさず荷物は 機内預かりにされてしまった。Tgさんのロストバッゲージの件で、 エールフランスはあまり良い印象はなくなっていたのだが、、 この件でエールフランスはすっかり嫌いになった。 出国カウンターへ進む。9日間ガイドを勤めてくれたHuさんとお別れである。 YnさんはMagister Toursで残務整理を行うため、もう1日イスタンブールに残る。 15:00、サテライトのロビーに移動。女の子達は買い物自慢などし合っている。 すぐに搭乗案内。エールフランスAF-1591便。機体はA320、当初通路側の18Cの席 だったが、添乗員のKnさんと交換で窓際の18Fの席になった。 しかし、なかなか出発しない。トルコ語とフランス語でアナウンスされても さっぱり分からない。英語の発音もフランス訛りで聞き取りにくい。 16:06、ようやく滑走路にむけて動き出すが、滑走路まで行く途中に 離陸待ちの飛行機がずっと停まってて全然前に進まない。 どうやら、離陸許可が下りないらしいという話が流れてきた。 16:46(トルコ時間)、ようやく離陸した。
フランス時間19:15、シャルル・ドゴール着。遠くにコンコルドが停まっていた。 乗り換えの待ち時間に、Knさんがエールフランスのカウンターに行く。 以前、Knさんがみんなに、飛行機の座席の希望を取っていたのだが若干名 希望通りに行かなかったので交渉に行くという。しかし、Shivaは、個人的には 大手の旅行社に、このようなことをやっては欲しくない。というのは、 以前Shivaは、出張からの帰りにJFKで通路側の席を希望したのに 団体客が押さえているという理由で、拒否されたことがあるからだ。 その時は、当然団体客より高い料金を払っており、トランジットの関係で、 空港カウンターの開く前から並んでいたのにもかかわらずである。 その時は日本航空だったので、あるいはJALPACなどの日航関連のツアー客を 優先したのか、あるいは私のチケットが、小さな代理店 (私の勤務先の関連会社)で出したものだったので、 相手にされなかったのかもしれない。 実際大手の旅行会社だと、オーバーブッキングの際なども、 なにかとチケットが回って来やすいという話は良く聞く話である。 パリ発はフランス時間23:20の予定で、十分に時間がある。 この間に今回のツアーについてのアンケートを取られる。 それと、今回の旅行で知り合った人達と、アドレスの交換。 もちろん電子メールアドレスとホームページアドレスも交換する。
成田行きの飛行機はAF274便で、実際は成田経由ヌーメア(ニューカレドニア) 行きである。機はB747-400ハイテクジャンボ。Shivaの席は18Fであった。 AFはDとIが欠番なので、18E,18F,18G,18Hが真中の4列シートである。 それぞれ、Nzさん,Shiva,Tgさん,Uyさんで並んでいたのだが、Tgさんは エクゼクティブ・クラス(ビジネス・クラス)にアップグレードになった。 ロストバッゲージのお詫びということらしい。開いたTgさんの席には、 エルサレムからトランジットで来た女の子が来た。 出発ぎりぎりまで乗れるかどうか分からなかったとか。 我々が日食ツアーの帰りだと言う事を聞いて、興味を持ったようでいろいろ 質問される。我々も得意になって、皆既日食のすばらしさを説明する。 Uyさんが、写真が出来たら送りましょうと言ったら、大喜びしていた。 是非一度、本物の皆既日食を見てもらいたいものである。 日本時間17日の17:38、成田空港に着陸。少し早く到着したため、 駐機場がまだ開いてないらしく、しばらく機内で待たされる。 入国手続きとバッゲージ・クライム。今度は全員の荷物が無事出てきたようだ。 Knさんとお別れの挨拶。日本時間19時少し前、ロビーに出たら、コプティックの Mz店長とKNTのえらい方が来ていた。19:00、空港ロビーのニュースが始まった。 半日前までいた、あの美しいイスタンブールの近郊のイズミットという町で、 トルコ時間午前3時に大地震があり、500人以上の死者が報告されていた。 Shivaはしばし呆然とした。 (註:その後、報道される度に犠牲者の数はさらに増えて、 13,000人以上が亡くなったとのことです。犠牲者の冥福をお祈りします)

あとがき
旅行の最終日、添乗員のKnさんが、こんなようなことをいいました。

いままで、トルコの国旗をみて、このように思ったことは無かったので、 とても新鮮に感じました。
コプティック星座館の主催する日食旅行は、何度も参加している いわゆるリピーターの方が多いようです。 それだけ、他のツアーには無い魅力というものがあるのだと思います。 Shivaは、コプティックのツアーを利用するのは今回が初めてだったのですが、 それが良く分かりました。このツアーを薦めてくれたNzさんに感謝。 また、この旅行のための、コプティック星座館,近畿日本ツーリストの 皆さんの事前準備は、Shivaが考えていた以上に大変な作業であることが とても良く分かりました。
それにしても、イスタンブールの地震には驚かされました。 Shivaが帰りの航空機に乗っている間の出来ごとです。 成田空港でニュースを見ていて、他人事には思えませんでした。 事務処理のため残られた、近畿日本ツーリストのYnさんならびに、 Huさんをはじめ、Magister Toursの皆様の安否が気になります。 (註:後ほどメールがあり、Ynさんは無事帰国、Magister Toursの 皆さんも無事だったそうですが、Magister Toursのみなさんは、 通訳などに借り出されて大忙しだそうです)

Special Thanks

本当にありがとうございました。 よろしければ、感想など頂けるとありがたいです。

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